福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

神様に創造された自然に感動!

母の日に思う!


母の日に咲きました。(葛西福音キリスト教会 江戸川区教会花壇)

2020年5月15日、上の写真は、去年の母の日に信徒の方から教会へいただいた「ピンクのカーネーション」です。今年も「母の日」に一輪のピンクの花を、鮮やかにつけて咲き始めています。またその周囲には3っつの花のつぼみが育っています。楽しみです。早く礼拝再開できれば、教会の皆様にもお見せできるのにと非常に残念です。

 皆様は「母の日」をどのように過ごされましたか。また、母に何かをプレゼントされたでしょうか。

 私は、年を取るごとに母への感謝を募らせています。ただ、ふところ事情と不器用な性格もあり、とりあえず今年は電話でコロナ危機の中で健康に生存している連絡と、息子として母を気遣っている気持ちを伝えました。皆様は私のような不詳の息子以上の「母の日」のお祝いをされているかと思われます。どうか、皆様には母という存在と、彼女とのきずなの大切さを思い返す日にされますようにお願い申し上げます。

 

 ネットニュースでこのような記事がありました。

 「今こうやって生活できているのは母親のおかげだと思うので、すごく感謝しています。」と。

 プロ野球選手の佐々木さんは、岩手県陸前高田市に住んでいた当時9歳で東日本大震災で被災しました。そのため、津波で父と祖父母を亡くし、その後、母親の親族のいる大船渡市に引っ越し、母親に女手一つで育てられました。プロ野球選手になって初めての「母の日」を迎えてメッセージを発信しました。「今こうやって生活できているのは母親のおかげだと思うので、すごく感謝しています。」と。

 彼は、幼いころの「母の日」の思い出として、「小学生の時に、母に100円ショップのハンカチをプレゼントしました。100円で喜んでくれないかなと思いましたが、喜んでくれました。」と振り返ります。

 そして、「母の日」を迎えた子供たちに向けて、「プレゼントをあげるにしても、値段ではないと思います。気持ちを伝えられれば、わかってくれるとおもうので、何でもいいので、何かしてあげたらいいと思います。」とアドバイスを贈っていました。

 

 なぜ、「母の日」は祝われてきたのでしょうか。

 すこし、「母の日」について調べて、考えてみませんか。歴史的由来を知ることによって、より深く、そして広く「母の日」を祝え、そして現在を生きるあなたと「母」のきずなが尊く、かけがえのないものだと思えるなら幸いです。

 

 今、知られている「母の日」の古い記録では。アイルランドとイギリスのものがあります。

 「マザリングサンデイ」と呼ばれ、キリスト教の教会歴「レント」期間の第四日曜日(復活祭【イースター】の3週間前)に祝われています。17世紀に始まったとされ、奉公中の子どもが教会で母親と面会するなどの行事が行われていました。

 

 現在の日本の「母の日」を定着させる流れと思われるアメリカの「母の日」について

 アン・ジャービスは南北戦争中に「母の日の仕事の日」と称して、敵味方問わずに負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させた活動を起こしますが、結局普及することはなかったそうです。

 しかし、ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、娘のアンナ・ジャービスは亡き母を思い、母が日曜学校の教師をしていた教会で、記念会をもち白いカーネーションを贈りました。

 そして、アンナの母への思いに感動し共感した人々が、母を思う日の大切さを大事にして、1908年5月10日に同教会で470人の生徒と母親たちの集会をもち、最初の「母の日」を祝ったと言われています。その集会でアンナは参加者全員に、母親が好きだった白いカーネーションを手渡しました。このことが、現在のカーネーションを「母の日」の定番とした由来です。その後、アンナは友人たちに「母親の日」をアメリカ全州で祝うことを提案します。1914年、「母の日」はアメリカの記念日となり、5月の第二日曜日と定められました。

 

 日本での「母の日」の定着と各界への広がりについて

 1913年、青山学院で「母の日」の礼拝が行われました。それはアンナ・ジャービスから青山学院に手紙が届き、当時の青山学院の女性宣教師たちの熱心な働きかけにより実現しました。それが日本での「母の日」の定着のきっかけとされています。

 1931年、大日本連合婦人会が結成され、その際に皇后の誕生日である3月6日を、「母の日」と決めたが普及しませんでした。

 1937年5月8・9日、第一回「森永母の日大会」(森永母を讃へる会主催、母の日中央実行委員会協賛)が豊島園で開催されました。その経緯は、1931年頃から世情が徐々に軍国調になるなか、森永製菓㈱は全国に心温まるこの行事を広めようと、1936年に「森永母を讃へる会」を結成しました。そして関係諸団体に呼び掛けを行い、「森永母の日」の行事を全国規模で展開しました。

 その第一回「森永母の日」は、豊島園の野外ステージを舞台に、20万人もの母親を招待して行われ、新聞などのメディアに大々的に取り上げられ、日本の「母の日」を広める大きな力となったとされます。

 その後、「森永母の日大会」は全国の主要都市でも開催され、数多くのお母さんを主賓として招待し、「ありがとうお母さん」の感謝の声を全国へ届けました。年ごとにこの運動は充実されましたが、1941年の太平洋戦争の開始によって、中止に追い込まれました。

 再開後、1947年頃からアメリカにならって5月の第二日曜日に行われるようになりました。 

 

 母に贈られるカーネーションについて

  一般的に、母の日に贈られるカーネーションですが、母親が健在の場合は赤いカーネーションを贈り、母親がそうでない場合は白いカーネーションを贈ることが一般的とされます。

 

 おまけ

 国民の祝日に関する法律第二条によると、5月5日の子どもの日は、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝すること」が趣旨となっています。

 そして第一条には、国民の祝日をどのように思い、祝うのかが記されています。「自由と平和をやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民をこぞって祝い、感謝し・・・」と。

 母に対する思いは大切にしたいものですね。